孤影悄然

一般的若者が書いている無責任なブログです。

ギガを食う

 PCにメモリとストレージがある様に、人間の脳にもメモリとストレージがあると考えるのは何も不思議ではないだろう、と言い切ってしまう根拠不在の自信がある僕が不思議ちゃんの可能性は否定できないし、脳については"アハ体験さん"の様な脳科学者でもなんでも無いので何も知らないに等しい知識量だろうが、右脳と左脳診断をしないと自分のステータスを客観視できない人よりは知っているのかもしれないし、何も知らないのかもしれない。だから、人間の脳にもメモリとストレージがあると考えているのは僕個人としての主観であって、人類の総意であったりとか、真実であったりするワケじゃないんだけど、そうとしか思えない事が多々ある。

 人の話を聞いている時、僕はその人が話している事を瞬間的に理解できない事があって、発せられた言葉が自分を素通りしているんじゃないかと思ってしまうくらい、人の話が頭に残らない。恐らくこれは、そもそものメモリの容量が足りていない、もしくはメモリに余計なソフトが常駐していて容量を食っている、今風に言うならギガを食っている。そしてもう一つは僕のストレージがSSDの様にアクセス速度が高速ではない、多分、回転速度が遅いHDDを使用しているのだろう。下手すりゃカリカリ言っているのかもしれない。

 だから、リアルタイムで会話をするという行為が本当に苦手で、特に酷いのがテキストチャットだ。誤字脱字は当たり前の様にしてしまうし、相手に意味が伝わらない日本語から逸脱した言葉らしき何かを送信してしまったりする。これは僕が会話や物事をリアルタイムに処理する機会が日常を生きている上で殆ど無いのが原因だろう。

 何かが発生する、少し考える、言葉になる、という手順で僕はいつも言葉を発しているんだけど、この少し考えるパートの時間が少し長い、人よりも少し長いのかもしれない。多分、スパゲッティコードみたいに(プログラミングなんて組んだことないけどね)ぐちゃぐちゃに回路が組まれていて必要な情報が必要な場所へ行っていないんだろう。それか馬鹿みたいに迂回しているのかもしれない。で、正しい場所や長い長い旅路を経てようやくその情報を必要とする場所へ到着した時には既に会話は次の段階へと進んでいる。すると行き場を失った情報は雲散霧消してしまって、僕は何を考えていたかを一瞬で忘れてしまったり、わからなくなってしまったりする。そして、話が噛み合わない。よくわからない返答をしてしまう。等々、様々な障害を引き起こしてしまう。

 だから、リアルタイムで口で喋っている時は殆ど何も考えていないに等しい。予測変換に登録されている口癖を並べて、言葉の様にしているだけなんだと僕は勝手に思っている。何故なら、自分が喋った事をほとんど何も覚えていないからだ。無責任にも程がある。これは記憶力が絶望的に無いのか、それとも、もっと別の問題なのか。自分では分からない。ただ、こうして文章に残すと後で見返した時に自分がその時に何を考えていたか、何を読んでいたのか、何を見たのかが大体分かる。

 多分、物心ついた時から自我をインターネットの一部に放り込んでしまっているから、記憶の外部化を結構な深度で受け入れてしまっているから、こういう事になっているんだと思う。正直な話、手書きで文字を書くのは無駄としか思っていないし、知識だって調べたら秒でヒットする。だったら、自分の脳という倉庫に知識を詰め込んでしまうのは、無駄だと思いませんか?というのはこの間読んだ本に書いてあったけど、僕はそれを当たり前だと思っていたし、現代に生きる人間はみんなそう思っているんだとばかり思っていた。その本の第一刷が1986年で、当時、インターネットはみんなのものではなかっただろうから、そういう考え方をする人たちが少数派でも何も不思議に感じないが、この本は未だに結構売れているみたいで、つい去年の2016年に第111刷が発行されている。2016年はもうインターネットがみんなのものだと言っても差し支えない時代だと僕は思う。どんな人間でもアクセスしようと思えばインターネットにアクセスできる。だから、僕みたいに自我の一部をインターネットに放り込んでしまって、僕と同じ様に知識なんて調べたら良い。例えば漢字が書けなくても、キーボード、フリックで入力すれば正しい漢字に変換してくれる。勿論、正しい漢字と意味を知っている前提がそこにはあるだろうけど、もし間違っていると思ったら調べて、その言葉の意味をまた調べれば良いだけだ。そういう風な事をずっと思っていた。でも、そういう本が未だに売れていて、多分、結構な売れ行きなんだろうな、という事はそういう考え方を持っている人がまだ少ないんだろうな、と。

 昨日、ネットをだらだと眺めていると「ここが自分の居場所だ、と感じるのはどこですか?」というアンケートを取った、という記事があったので見てみると、一番に自分の部屋、次に家庭、そしてその次がインターネット、という集計結果が出たらしい。これを見て皆がどんな反応をするかは大体予想がつくんだけど、僕はこの集計結果をみて(集計結果を信用し過ぎるのもどうかとは思うけど)「良いじゃん」と思った。人間は絶えず安住の場所を求めて、移動して、良さげな場所を見つけては定住してきただろうから(その辺の歴史はちゃんと調べたことが無いので今テキトーに妄想しただけなんだけど)、それがようやく現実に存在する土地から、インターネットに移っただけの話で別に何もおかしくないし、異常でもない。それだけインターネットという空間が皆の心を掴んで離さないのだろう。そういう人が増えてきた。けど、それじゃあいけないんじゃないか?、インターネットはやっぱり疲れる、という人たちは適応できていないか、インターネットに放り込む自我の量が足りていない。もっと放り込んでしまえば良い。放り込んでしまうと外から眺めていた景色とは違う世界がそこには広がっているだろうし、それほど悪くない空間なんじゃないかと思ってしまうんじゃないかと思う。勿論、現実の人間との付き合いも大切にした方が良いんだけどね。でも、それすらも面倒になってきている現代人に取っては、やっぱりインターネットが一番安心して無責任になれる場所なんだろう、と思う。そう、ここではみんながみんな無責任なんだ、そう思えばもうちょっと気楽に過ごせるんじゃないだろうか。

 絆という言葉は牛を縄で動けない様にするというのが語源、って前に読んだ本に書いてあった。今、ネットで調べても同じような事が書いてあったから多分本当なんでしょう。無責任だなあ。そういう、絆に疲れてしまったのかもしれない。縛りつけるのが絆なら、そんなもの邪魔でしかない。そういう縛り付けの必要が無い関係性を持てる誰かと一緒に過ごすのが、もしくは心地よい孤独こそが今、一番の安住の地なのかもしれない。