孤影悄然

一般的若者が書いている無責任なブログです。

日常に非日常が溶け込む時に

例えば、今の記憶のまま1000年後へタイムスリップしたとして、多分、目の前に広がる1000年後の世界に驚きと感動を隠せないだろうと、僕の場合はそうなるだろうと予想してみるが、実際に1000年後へタイムスリップした事は無いので、これは予想というよりは妄想と願望だ。次に1000年後の世界に当たり前に住んでいる自分を妄想してみる。多分、「今の記憶のまま1000年後へタイムスリップしたとして、多分、目の前に広がる1000年後の世界に驚きと感動を隠せないだろうと、僕の場合はそうなるだろうと予想してみるが、実際には1000年後へタイムスリップした事は無いので、これは予想というよりは妄想と願望だ。次に1000年後の世界に当たり前に住んでいる自分を妄想してみる」と、今と全く同じ事を妄想しているんだと思う。つまり、過去と現在と未来のギャップがあってこそ未来は妄想しがいがあるものなんだ、そのギャップが大きければ大きいほど楽しめるんだ、という事で、タイムスリップ以外に過去と現在と未来のギャップを楽しむ為には長生きするしかなく、白黒テレビが普及し始めた3丁目の夕日の様な(ちなみに僕はあの映画が大嫌いです。過去を美化し、今から目を逸らすな。君らの時代はもう戻ってくる事は無いし、環境が違う状態で繰り返しをすれば、その度に綻びは増え、そして破滅を迎える。)時代に生まれた人間達がインターネット、SNS、iP(禁則事項です)eに感動している、感動している様に見せているだけで実際は何がどう凄くなっているか、本当の事は分からず、ただ凄いと言っているだけなんじゃないか、僕は違うんだ、と言いたいが僕も良く分かってない。インターネットに自我の一部を投げ入れてしまった自分には何も分からない。人は身近なストレスから開放されると、今度は世界にストレスの源となる何かを探し始めるのかもしれない。結局はストレス無しには行動出来ない自分が居るんだ、と少し悲しくなる。元々、皆とは違う、俺は違うんだ(一人称が転々とする人は性格が云々、という記事だったかコピペだったかを読んだ事があるが、肝心の内容を忘れているので意味が無い、どうせ大したことは書いてなかったんだろう)という方向性でやっていたタイプの高校生だったんですが、当時は周りに人がたくさん居て、嫌になる程居たんですが、彼らの殆どが表面的には善良で表面的な彼らとしか接したことの無い僕は彼ら彼女らに敵意を向ける必要は全く無く、僕は特に何をするでもなく、実際には何かをしていたのだが、それの原動力はどこにあったんだろうと考えてみると、やっぱり皆が向いている方向とは違う方向に行くしかないんだ、という部分でそこからエネルギーの全てを得ていた様に思う。良く芸術家がやってる様な、例えば「震災云々」だとか「世界平和」だとか「愛」だとか、ああいうのは人類みんなの為を思って芸術的活動をしているのではなく、単純に自分の動力源を探した結果、その辺が人もお金も集まるだろうし、とか、ついつい世界情勢をエンタメ的に見てしまって影響されて自分もそれに干渉したくなっちゃったとか、そういう風な事を思っているんだろうなと、そういう活動をしている彼ら彼女らを見てそう思ってしまう辺り、自分はもういよいよ良くないのかもしれない、と思ってしまう反面、間違えているとも思えない。で、ここまで書いた事とタイトルは一体どう関係しているのか、と。殆ど無関係なのかもしれないし、もしかしたらすごーく関係しているのかもしれない。書きながら考えている僕がどういうつもりでこの文章を書いているのか、自分にも分からない。が、しかし、無意識に出てきた言葉が一番その人の純粋な言葉なんだ、と誰かが言っていたので、そうらしいので、試しにこの無意識に出てきた文章を見返すと自分は支離滅裂で計画を立てる事が出来ず好きな事しかやりたくないし日本語がはちゃめちゃ、みたいな事を読み取れるので、さっきの誰かが言ってた無意識云々は正しいんだと思う。で、震災云々は自分が西日本在住で震災の惨状を液晶の中で映画でも見ているかの様な気分で見てしまっているから、自分に発言権は無いな、と、そういう風に思っているので、震災は置いといて残りの二つの「世界平和」とか「愛」とかの話をしましょうか。突然、自分らしくもないワードで話すんだね、と自分でも思っているんですけど、要するに「当たり前の様に人類以外の宇宙人とか超能力とか未来人」の類が人類と共同生活をしている日常系ギャグアニメを見てしまうと、これこそ「世界平和」とか「愛」なんじゃないか、と日常系ギャグアニメを見て思ってしまったんです。日常の中に当たり前の様に本来なら異物と認識されても可笑しくない、迫害されても可笑しくない存在が当たり前の様に、一緒に食事をしたり、学校に行ってクラスメイトと中身の無い少し笑える話をしたり、喧嘩をしたり、時には一緒に泣いたり、と。ファミレスで働いている宇宙人を見ても何も不思議に思う事もなく普通に注文したり、田舎の方には龍に乗る部活があったり、ニュースで猿人と馬人の違い云々とか言ってるのを見て複雑な気持ちになってしまった旦那さんにケンタウロスのお嫁さんが優しく「何にも違わないよ」と言ってあげるシーンを見てしまうと、やっぱり、ここに「正解」とまでは言い切れないが何かが良くなりそうな方向が示されている様な気もする。僕はそういう当たり前の様に日常に非日常が溶け込んでいる作品がずっと好きでそういう作品を見つけては見たり読んだりしているんだけど、どうしてそれが好きなのかが良く分かっていなかった。好きに理由なんか必要ない、という言葉を誰かが言っていた様な気もするが、理由が見つかったんならそれはそれで良いと思う。断言は良くない。「理由が無くても良いんじゃない」くらいにしといた方が柔らかくて良い。これは「お花畑理論」で現実には日常系ギャグの様にはならないし、無理だ。こうして、お花畑理論を考えられている今こそが平和なんだろうし、それすら考えられなくなってきたらいよいよ限界なんだろう。まあ、最悪、限界を越えて最も悪い状態になっても「みんな大きくなってやがて死んでも、ここにまた産まれてくるから賑やかになるし」大丈夫でしょう。人は一つの考えしか持ってはいけないんだ、という制約が幸いにも無いので柔らかく、お花畑の楽園と理詰めの現実的な世界を自分の中に保有して、それを上手いこと使い分けてこの時代を生きていけたらな、と書きながら思ったのであった。おしまい。