孤影悄然

一般的若者が書いている無責任なブログです。

2、3。

自分が映像作品のドラマ部分に興味、関心を持ち始めたのはここ2、3年の話で、ドラマ部分なんてそれまでは一切(というのは少し盛っているが)興味を示さなかった。世間では「”泣ける作品”こそが正義であり、"泣けない作品"は正義では無い」と二分されている様に思っていたし、映画の予告編や番宣ではその作品が「泣けるかどうか」の判断材料しか主張していないんじゃないか、と自分は2、3年前まで感じていた。で、これらは自分の視野の狭さから発生していた不快感だという事に気付いたのはここ2、3年である。一体、2、3年の間に彼に何が起こったのか。その謎を探るべく調査隊はアラスカへ行く必要など一切無く、真実は”検索能力の向上”である。最強のインターネット様が全人類(は盛りすぎているし、様々な団体から怪訝な目で見つめられてキュン死してしまいそうだが語感が良いのでこのままにしておきます)を支配している時代、"視野が広がる"というのは"検索能力の向上"と同義であると私だけが思っている。世界というのは主観で形成されていくので私がそう思えば私の脳は私の世界を私の中に構築するのである。で、検索というのは大変便利でGoogle大先生には常日頃からお世話になっているワケだが、しかし、検索時に使用する語彙は自分の脳内からしか出てこない。これが結構に視野を狭めている元凶だと僕は密かに思っているが似たような事を言及している人を何人も見てきたので密かにしている僕は恥ずかしい存在である事は明白である。つまり、検索で情報を得ようとしても結局得られる情報は自分の持っている情報に毛が生えたような情報しか得られない、という事になる。が、これは例外だらけで「うっかりマニアックな事ばかり書いているブログに迷い込んでしまった」「リンクを踏みまくっていたらアマゾンの奥地でサバイバルをしていた」「東京タワーに登っていると思っていたらスカイツリーバンジージャンプをしていた」等々、思いもよらない出会いを果たしてしまう事もある。が、しかし、そういった”興味深い世界”へと誘われる可能性は極めて低い。ので、博打的、そして怠惰的に”おもしろいコンテンツ”を探す為に電子の路地裏を徘徊する行為は時間の、人生の浪費に他ならないので自分が欲しい情報を効率的に得るためには自分の語彙力というヤツが重要になってくるワケだがこればっかりは「本を読め」としか言いようが無いと言っている奴が大多数を占めている世の中でその内の何%の人類が本を読んでいるのだろうか、と私は問いたい(誰に?)。因みに偉そうな私はあまり本を読んでいない。それでも、本を読むと魔術書を読んだ途端に黒魔法を覚えてしまうゲームの主人公並に語彙力が上昇しているな、と感じる事が多々ある。そして同時に「僕よりも言葉に触れる機会が多い人なんてこの世にはたくさんいるんだろうな」と思い、自分はなんて駄目な人間なんだ、もっと良い生き方をしなくてはならないんだ、などと考えている人は大体の場合で精神的に潰れてしまうので、そんな危険な考え方は捨てるべきでしょう、などと供述しており、事態は膠着状態に。というのが2、3年の間に僕に起こった変化である。自分でも何を言っているか分からない、というのは大嘘で、いや、自分が自分にどれだけの嘘をついているのか、なんてのは考えていると死んでしまいたくなる、というのは99%冗談で、本当に言いたい事なんてのは、本当にそのまま言ってしまうと面倒な事になってしまう。何時の日か、皆の本音を皆が皆に向けて発信し、人類が仲良くするなんてやっぱり無理なんだな。はいはい、補完補完、となる未来を僕は望んでいるのかもしれない。

 

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