孤影悄然

一般的若者が書いている無責任なブログです。

ディスプレイに集まる虫たちを眺めて

潰す。この季節の風物詩と言ってもいい。飛んで火にいる夏の虫は現代ではディスプレイ目掛けて突っ込んでくるので死にはしない。これもまた人類が進歩し、世界がより良くなっている証拠だろう。私はその進歩を無下に、彼ら、虫たちをナウシカを読みながら殺している真っ最中で、生きているもの達はティッシュで潰し、そしてフローリングの上に死屍累々とした、決して還る事の無い彼らを掃除機で吸い取る。

彼らが侵入を止める事は絶対に無い。戦力だけなら確実に私の方が上だ。が、しかし、彼らはその圧倒的な数で進軍してくるのだ。無意味に、ただ無意味に。彼らは夏が終わるまで、その命が尽きる最後の時まで、ただディスプレイ目掛けて突っ込んでくるのだ。

 

解説

エアコンが無いんでしょうね、彼の部屋には。誰か買ってあげて。

 

 

 

ギガを食う

 PCにメモリとストレージがある様に、人間の脳にもメモリとストレージがあると考えるのは何も不思議ではないだろう、と言い切ってしまう根拠不在の自信がある僕が不思議ちゃんの可能性は否定できないし、脳については"アハ体験さん"の様な脳科学者でもなんでも無いので何も知らないに等しい知識量だろうが、右脳と左脳診断をしないと自分のステータスを客観視できない人よりは知っているのかもしれないし、何も知らないのかもしれない。だから、人間の脳にもメモリとストレージがあると考えているのは僕個人としての主観であって、人類の総意であったりとか、真実であったりするワケじゃないんだけど、そうとしか思えない事が多々ある。

 人の話を聞いている時、僕はその人が話している事を瞬間的に理解できない事があって、発せられた言葉が自分を素通りしているんじゃないかと思ってしまうくらい、人の話が頭に残らない。恐らくこれは、そもそものメモリの容量が足りていない、もしくはメモリに余計なソフトが常駐していて容量を食っている、今風に言うならギガを食っている。そしてもう一つは僕のストレージがSSDの様にアクセス速度が高速ではない、多分、回転速度が遅いHDDを使用しているのだろう。下手すりゃカリカリ言っているのかもしれない。

 だから、リアルタイムで会話をするという行為が本当に苦手で、特に酷いのがテキストチャットだ。誤字脱字は当たり前の様にしてしまうし、相手に意味が伝わらない日本語から逸脱した言葉らしき何かを送信してしまったりする。これは僕が会話や物事をリアルタイムに処理する機会が日常を生きている上で殆ど無いのが原因だろう。

 何かが発生する、少し考える、言葉になる、という手順で僕はいつも言葉を発しているんだけど、この少し考えるパートの時間が少し長い、人よりも少し長いのかもしれない。多分、スパゲッティコードみたいに(プログラミングなんて組んだことないけどね)ぐちゃぐちゃに回路が組まれていて必要な情報が必要な場所へ行っていないんだろう。それか馬鹿みたいに迂回しているのかもしれない。で、正しい場所や長い長い旅路を経てようやくその情報を必要とする場所へ到着した時には既に会話は次の段階へと進んでいる。すると行き場を失った情報は雲散霧消してしまって、僕は何を考えていたかを一瞬で忘れてしまったり、わからなくなってしまったりする。そして、話が噛み合わない。よくわからない返答をしてしまう。等々、様々な障害を引き起こしてしまう。

 だから、リアルタイムで口で喋っている時は殆ど何も考えていないに等しい。予測変換に登録されている口癖を並べて、言葉の様にしているだけなんだと僕は勝手に思っている。何故なら、自分が喋った事をほとんど何も覚えていないからだ。無責任にも程がある。これは記憶力が絶望的に無いのか、それとも、もっと別の問題なのか。自分では分からない。ただ、こうして文章に残すと後で見返した時に自分がその時に何を考えていたか、何を読んでいたのか、何を見たのかが大体分かる。

 多分、物心ついた時から自我をインターネットの一部に放り込んでしまっているから、記憶の外部化を結構な深度で受け入れてしまっているから、こういう事になっているんだと思う。正直な話、手書きで文字を書くのは無駄としか思っていないし、知識だって調べたら秒でヒットする。だったら、自分の脳という倉庫に知識を詰め込んでしまうのは、無駄だと思いませんか?というのはこの間読んだ本に書いてあったけど、僕はそれを当たり前だと思っていたし、現代に生きる人間はみんなそう思っているんだとばかり思っていた。その本の第一刷が1986年で、当時、インターネットはみんなのものではなかっただろうから、そういう考え方をする人たちが少数派でも何も不思議に感じないが、この本は未だに結構売れているみたいで、つい去年の2016年に第111刷が発行されている。2016年はもうインターネットがみんなのものだと言っても差し支えない時代だと僕は思う。どんな人間でもアクセスしようと思えばインターネットにアクセスできる。だから、僕みたいに自我の一部をインターネットに放り込んでしまって、僕と同じ様に知識なんて調べたら良い。例えば漢字が書けなくても、キーボード、フリックで入力すれば正しい漢字に変換してくれる。勿論、正しい漢字と意味を知っている前提がそこにはあるだろうけど、もし間違っていると思ったら調べて、その言葉の意味をまた調べれば良いだけだ。そういう風な事をずっと思っていた。でも、そういう本が未だに売れていて、多分、結構な売れ行きなんだろうな、という事はそういう考え方を持っている人がまだ少ないんだろうな、と。

 昨日、ネットをだらだと眺めていると「ここが自分の居場所だ、と感じるのはどこですか?」というアンケートを取った、という記事があったので見てみると、一番に自分の部屋、次に家庭、そしてその次がインターネット、という集計結果が出たらしい。これを見て皆がどんな反応をするかは大体予想がつくんだけど、僕はこの集計結果をみて(集計結果を信用し過ぎるのもどうかとは思うけど)「良いじゃん」と思った。人間は絶えず安住の場所を求めて、移動して、良さげな場所を見つけては定住してきただろうから(その辺の歴史はちゃんと調べたことが無いので今テキトーに妄想しただけなんだけど)、それがようやく現実に存在する土地から、インターネットに移っただけの話で別に何もおかしくないし、異常でもない。それだけインターネットという空間が皆の心を掴んで離さないのだろう。そういう人が増えてきた。けど、それじゃあいけないんじゃないか?、インターネットはやっぱり疲れる、という人たちは適応できていないか、インターネットに放り込む自我の量が足りていない。もっと放り込んでしまえば良い。放り込んでしまうと外から眺めていた景色とは違う世界がそこには広がっているだろうし、それほど悪くない空間なんじゃないかと思ってしまうんじゃないかと思う。勿論、現実の人間との付き合いも大切にした方が良いんだけどね。でも、それすらも面倒になってきている現代人に取っては、やっぱりインターネットが一番安心して無責任になれる場所なんだろう、と思う。そう、ここではみんながみんな無責任なんだ、そう思えばもうちょっと気楽に過ごせるんじゃないだろうか。

 絆という言葉は牛を縄で動けない様にするというのが語源、って前に読んだ本に書いてあった。今、ネットで調べても同じような事が書いてあったから多分本当なんでしょう。無責任だなあ。そういう、絆に疲れてしまったのかもしれない。縛りつけるのが絆なら、そんなもの邪魔でしかない。そういう縛り付けの必要が無い関係性を持てる誰かと一緒に過ごすのが、もしくは心地よい孤独こそが今、一番の安住の地なのかもしれない。

微細な変化が積み重なって

 変化というのは絶えず日常的に発生していて、ただその変化があまりにも小さい所為で、日々累積していく変化達に中々気付くことが出来ない。気付いた頃には時既に遅くて取り返しのつかない大きな変化になっているのかもしれないし、日頃から地道に重ねていた何かがが花咲いて嬉しい変化を知ることになるのかもしれない。

 この日々発生している微細な変化を感じ取れたら、もうちょっと上手く人生を過ごしていけるんじゃないかと高熱を出しながら考えていた。別に知恵熱で高熱になったのではなく、久々の高熱で身体がまったくの使い物にならず暇つぶしに、というか気晴らしに脳内で遊んでいただけだ。まあ、高熱がきっかけで「微細な変化」について考えていたから高熱様サマではあるんだけども。

 大体僕は2年に1回のペースで38℃でくらいの熱を出しては家族に迷惑を掛けている。(感謝しかありません。ありがとうございます。) もはや恒例行事ですね。こんな恒例行事さっさと無くなってしまえば良い。普通につらいんです、高熱は。だから、もうこんな恒例行事を、田舎で無意味に繰り広げられている特に対した伝統も無い恒例行事を滅ぼしていく様に滅ぼしていきたいんです。

 そしてここからは高熱で活動が活発になった白血球ちゃん達の如く脳を活発に活動させて出てきた数々の風邪予防策が飛び出してきそうな展開ですが、その辺は医者に聞いたほうが(素人に比べれば)確実且つ安全な情報を得られると思いますので、身体的に困ってる事があったらインターネットで検索するんじゃなくて近所の内科とかその辺に行ったほうが身のためです。

 実はまだ病み上がりなんです。病み上がりで上手く頭が動かない。動かないのを良い事に投げっぱなしで終わります。後は明日か明後日の自分に任せて僕はもう休みます。おやすみなさい。

 

 

 

閃きとお風呂

 久々にゆっくりと湯船に浸かり、そして改めてお風呂の偉大さを実感した。現代人が裸になる機会なんてお風呂に入る時くらいだろう。幸せに無防備な自分を曝け出す事が出来る唯一の時間だ。何も不安に思わず入浴できる事を心から幸せに思う。

 そして更に幸せな事に入浴中はアイデアが無尽蔵に湧いて出てくる幸せな時間でもある。僕はずっと「お風呂と閃き」の関係性が気になっていた。(まあ、そんな事よりも出てきたアイデアの方が重要だったから気にはなっていたが放置していた。)この関係性について大真面目に解説、考察している本は無いかとAmazonで「お風呂 閃き」と頭の悪いワードで検索をしてみたが妙な自己啓発とアハ体験さんの本くらいしかヒットせずげんなりしていた。ので、自分で考えてみた。というか、お風呂で思いついた。

 お風呂という場はノイズが本当に少ない。スマートフォンを持ち込まない限り、現代人の殆どが依存しているSNSを物理的に断てる。他人の声も聞こえない。テレビは無いし、本だって読めない、ゲームもできない。となると、残るノイズは自我のみで現代人が純粋に自分と向き合う唯一の時間と言っても良いんじゃないかと勝手に思った。勿論、自分と向き合う時間なんてお風呂以外にも取ろうと思えば幾らでも取れる。ただ、お風呂タイムとそれらの時間には歴然とした違いがある。それは「緊張」の有無だ。お風呂という場はこの「緊張」という大変厄介なノイズさえも消してくれる。自分自身と向き合う時、自分の場合、心身のどちらか、または両方が緊張している事が多い。この緊張は本当に厄介でこの緊張の所為で思考が上手くまとまらないとか、自己否定的になってしまうとか、もう考えてる場合じゃない、つらい、となってしまう。だが、お風呂でこうはならない。血行が良くなって気持ちよくなってきて気分も楽になってくる。その状態になる事で程よく心身がテキトーになって思考をせき止めている何かが少し緩む。そして、閃く。さあ、忘れない内にメモをするなり、スケッチしたり、五線譜におたまじゃくしを置いたりしよう。

 「風呂は命の洗濯よ」と某アニメでサービスさんが言っていたが、きっとあの言葉は正しいんだろう。ただ、その某アニメの監督は風呂嫌いらしい。はて。もしかすると僕は騙されているのかもしれない。疑心暗鬼になるのも無理はない。何故なら今はお風呂に入っていないからだ。

 

火星の週末

 ラジオってあるじゃないですか。ありますよね。無かったら僕に教えてください。小学生くらいの頃に車から聞こえるFMの面白さを知ってしまってから、僕の人生はラジオばかりの生活になっちゃって。自分用のラジオを購入して家で馬鹿みたいにラジオを聞いてはゲラゲラ笑っての繰り返し。で、好きだった番組は「火星の週末」ってやつで火星に住んでるラジオDJがテラフォーミングの状況を語ってくれたり、火星で流行ってる食べ物だとかファッションだとか、そういうのを教えてくれる。地球とのズレが個人的にツボでゲラゲラ笑ってましたね。今ではテラフォーミングも殆ど終わって地球上の人口の大凡3分の1が移住していきましたけど、あれももう3年前か。早いもんですね。僕は地球が好きなんでギリギリまで地球に住んでいたいんですけど、そろそろ移住しろって国がうるさいんだよなあ。火星じゃ殆どの国で主食が芋って話じゃないですか。なんだっけ、最初にうまくいった作物が芋で。そうそう、映画にもなって。名作だって皆がが言うんで見たんですけどあんまり面白くなかったんですよね、あれ。で、まあ話が飛んじゃいましたけど、やっぱり主食は米じゃないとね、ちょっとキツイじゃないですか。早いところ稲作の研究を進めてもらって火星で米が食えるようにしてほしいですね。え、小麦はできたの?